壱岐のイルカ事件

ここでは、小さな島の壱岐が世界的に有名になった事件をお話します。

ちょっとお話が長くなります。



いるか供養塔

壱岐が世界的に有名になった事件が起こりました。

壱岐は天然の好漁場でありその魚を追ってイルカ達も壱岐周辺に来ます。

壱岐の周辺には6種類のイルカがいます。

バンドウイルカ、ハナゴンドウ、オキゴンドウ、カマイルカ、コビレゴンドウ、マイルカです。

その数30万頭といわれていました。












被害

皆さん、ご承知のように、イルカは大群で押し寄せ、しかも一匹々がたいへんな大食いで毎日自分の体重の一割もの量を食べます。

この時、イカやブリ、ハマチの網を食い破るため、壱岐のイカやブリの水揚げ金額は
3分の1になってしまいました。

特に、バンドウイルカ、ハナゴンドウ、オキゴンドウ、カマイルカが漁場を食い荒らします

当然、
イルカが来ると一番被害を受けるのがブリ釣船の漁師です。

1頭のイルカからブリが6本、大鯛の頭2頭が出てきたこともありました。

最初に、イルカの被害が問題になりだしたのは、昭和30年頃からで、勝本漁協では種々対策を講じましたが、なかなか有効な方策が見つかりません。

その後、昭和40年頃から、イルカが壱岐周辺で急増し、漁業被害が続発しました。

漁船が操業している漁場に、イルカが回遊してくると魚は逃げてしまい、釣り上げている途中のブリは横取りされ、漁具は壊されてしまいます。

イルカはイカも大量に食べます。

勝本漁港は西日本では有数の、イカの水揚げが多いところです。



駆除

漁師達は、当時は銛銃でイルカを撃って、1年で12頭捕っていました。

その後、強力発音器を使ったり、猟銃を使ったりしたが効果がありません。

水中花火が考案され、イルカの群れの一部を、海岸の入り江に追い込むことに成功しました。

伊豆や和歌山県太地
(たいじ)に追い込みの研修に行き追い込み技術も学習しました。

イルカがたくさん沿岸に近づいたときは、約500隻の全ての漁船が操業を中止して、円陣を幾重にも描きながら、イルカを海岸に追い込むという捕獲作戦を実施しましたが、当初は途中で逃げられてしまい失敗の連続でした。


大量捕獲

昭和50年、和歌山県の先進地で実績をあげている追い込み技術を調査研究し、翌51年、大量追い込みに成功しました。

ついに、長い間の捕獲の夢が現実のものとなりました。

捕獲したイルカは水族館に引き取らせたり、食用にしたりしましが、限界があるので海中投棄しましたが、海洋汚染法違反ということで海上保安庁からクレームがありました。

実は、この時、海中投棄したイルカが、潮流と風の関係で、福岡県の遠賀川の河口にある芦屋浜(あしやはま)まで、流れて行ったこともありました。

いろいろありましたが、昭和52年にも、577頭のイルカを追い込み捕獲に成功しました。

さらに、1973年(昭和53年)かねてからイルカの食害に悩んでいた勝本漁民が、
勝本町の北西約24kmの海上でイルカの大群を追い込み、網を使って4時間がかりで1,010頭のイルカを辰の島に追い込んで、殺しているところを、写真にとられました。

これが世界的に壱岐の島が有名になった事件の幕開けになりました。

実際は、本当はイルカを有効利用するために油脂会社と契約し、腐敗防止のための血抜きをしたところ、真っ赤に海面が染まり、それが残忍な光景として、空中撮影でテレビ報道され、一躍、世界の動物愛護団体から抗議され国際問題化したのです。

そのうえこん棒で殴り殺しているという誤報もありました。

イルカを殴り殺すには電柱のような大きな木でなければならないのにです。


国内、アメリカ、カナダ等世界中から抗議が殺到し、壱岐勝本の名前は一躍世界中に広まりました。

しかし、世界の動物愛護団体からどんな非難を受けても、今後、生活防衛の立場からイルカを排除するあらゆる手段を考えなければなりません。

なにしろ、生活がかかっているのですから。

しかし、イルカ捕殺に対する海外の反響は著しく、イルカに全く関係のない、日本商品のボイコット運動も起こりました。

国も重い腰をようやく上げ、イルカを殺さず追い払う技術開発に取り組む計画をしました。

でも、計画という口約束だけですから、全くあてにはなりません。


逃がす

そのような中、1890年(昭和55年)、夜半に、イルカ1300頭が捕獲されている辰の島に、動物愛護団体のメンバーと称する、アメリカ人ケイト(36)が、1人でゴムボートに乗って渡り、仕切網のロープを切ってイルカ約300頭を逃がすという事件がありました。

ケイトは環境保護団体「地球共存会」のメンバーでした。

壱岐には妻
(37)、長男(1)と一緒に来ていました。

しかし、春一番の大風で海上が荒れていて、おおしけのために勝本港に帰ることができず、無人の島で一夜を過ごしました。

一方、勝本浦に残っていたケイトの妻が連絡が取れなくなったので心配になり、壱岐の警察署ではなく、福岡のアメリカ領事館に電話で救助を求めました。

領事館から長崎県警、壱岐署、海上保安庁へと連絡され、勝本の漁師達も捜索の準備をしていた時に、イルカの処理作業に出かけた漁師が辰の島でケイトを発見し、連れて帰り、逮捕されました。



裁判

裁判が始まりました。

ケイト側の主張は、「人間とイルカは助けあって生きられる」というものでした。

そして、更に、「牛や豚の家畜は、人間が育て人間によって命を与えられているので、人間に所有権があり殺しても良いが、イルカは自然界の生き物で人間には所有権がない」という論法だったのです。


漁師の生活を無視してまで、イルカとの共存を唱える動物愛護運動は、到底、納得させられるものではありませんでした。

判決は、懲役6ヶ月、執行猶予3年の判決後、国外退去処分となりました。
でした。

また、一方では、イルカの駆除は漁民の生活防衛だったということも理解され、県や国の対策も進んで騒動は次第に沈静化しました。

喉もととうれば熱さ忘れる、ということでしょうか。


供養

勝本の漁協では、辰ノ島にイルカの供養碑を建設し、供養が行われています。

ところで、現在は、当時30万頭もいたといわれるイルカが、どこに行ったのか、小さな群れが時折現れる程度と言われています。


それでも、毎年小さな群はやってきて、今でもイルカの被害には悩まされています。

 イルカが大量に現れなくなった原因は、イルカが利口で、「壱岐の近海に行くと、脅かされ、殺される」ということを学習したのではないかとか、えさとなるイワシ等が減少し、回遊コースが変わったとか、海水の温暖化等で移動したと、いろいろな原因が考えられています。

現在、イルカは全面捕獲禁止になりました。

その後、
災い転じて福となす、ということから、観光のためのイルカの町づくりが進んでいます。



イルカパーク

右の写真は、イルカパークです。

平成7年にオープンしました。

勝本町にあります。

プールには、イルカが放され泳ぎ回っておりとても楽しそうです。

イルカ達を見ているだけで心が癒されます。

イルカと一緒に泳いだり、イルカウォッチング、餌付けができ、イルカと人とのふれあいの場所としてつくられた海洋パークです。

「イルカと一緒に泳ぐ」のは、水質の問題から現在休止中ですが、近く再開される予定です。





2時間おきにえさをやるので、その時、15分くらい芸を見ることができます。

イルカトレーニングでは、単にイルカに餌をやるの見せるということから、ジャンプやヒレを使った立ち泳ぎ、投げ輪を使った芸などが間近に楽しめます。

以前は、えさやりタイムのとき、イルカに触れながら直接エサを与えることができましたが、今はやっていません。

現在、芸をしているのは、若くて元気のメスの「エアー」と「ヴィ−ア」、オスの「クル」の3頭です。

ここには、全部でオス1頭、メス8頭の合計9頭のイルカがいます。

このうち、年をとった4頭の」イルカが「ふれあい体験」をしています。
以前は、黒くて大きなゴンドウイルカがいましたが、現在は、ネズミ色で口先が長い、体長3mのバンドウイルカの種類だけです。

2008年3月に、和歌山県太地からバンドウイルカ2頭が購入されました。

その費用が400万円。

壱岐の周りにはたくさんのイルカが泳いでいるのに、わざわざ、遠い場所から購入しなければならないようになっているからです。

お金があるところにはあるものですね〜。

半分は補助金が付いているにしても、私達の税金です。

現在は、この2頭は、トレーニング中です。

トレーニングの様子は公開されています。