壱岐の元寇総論

ここでは、モンゴル帝国の起こりと、なぜ、フビライは、日本を侵略しようとしたのかを、お話します。

 チンギス=ハン

チンギス=ハンは、平安時代の頃、小さな遊牧民族の部族長の子として、モンゴル高原で生まれました。

1206年、モンゴル高原で、狩りと遊牧民の生活をしていた、大小のモンゴルの部族を統一して、支配者になりました。

ハンとは、皇帝という意味です。





















その後、多くの都市という都市を次々と征服し、65歳で死ぬまで、アジアから中東、ロシアへとまたがる巨大なモンゴル帝国を作り上げました。

朝鮮半島の高麗も征服しました。

チンギス=ハンは、新たな都市を征服するたびに、部下たちに、女性は必ず自分のもとに連れてさせ、組織的な強姦を行うか、妾として自らの下に置き、自らの血を継ぐ子孫を増やし続けました。

また、征服したモンゴルの各部族を、万単位・千単位・百単位・十単位に編成し、いざというときには、すぐに戦争ができるようにしていました。

戦争の時には、騎馬軍団を組織し、1人が5〜6頭の換え馬を持ち、馬を自由に操り、機動力を発揮し、弓矢を射て、戦いました。

日本のように、歩兵はまったくいませんでした。











騎馬部隊は重騎兵、軽騎兵、騎馬投擲(とうてき)部隊に分けられていました。

重騎兵は、大型の馬に乗り、全身を頑丈なよろいでかため、長い弓を持って、敵陣の中に、突入していきました。

軽騎兵は、小型の馬に乗り、皮よろいを着用し、短い弓矢をもち、、戦況に応じて変幻自在に使われました。

騎馬投擲(とうてき)部隊は、石や槍、石油壷などを投げたり、投石などを行いました。

日本の戦国時代の武士は、重装備をして、小型の馬に乗り、長い弓矢を持ち、戦っていました。

また、抵抗した都市は徹底的に破壊し、住民も、容赦なく虐殺します。

その結果、モンゴルは強くて野蛮だと、周辺に知らしめ、戦う前に降伏してくるような状況をつくり、降伏し、素直に従えば一切危害を加えるようなことはしませんでした。

「人生最大の幸福は、敵を思う存分撃破し、駿馬を奪い、美しい妻や娘を我がものにし、その悲しむ顔を見ることだ。」、とも言ったといいます。




 フビライ=ハン

フビライ=ハンは、チンギス=ハンの孫にあたります。

第五代のモンゴル帝国の皇帝です。




















フビライ=ハンは、まず、中国の北半分を制圧し、大都(今の北京)を首都とし、国名を「元」と名付け、初代皇帝になりました。

フビライ=ハンは、東西貿易を重視し、陸海交通路を整備したので、東西交流がさかんになりました。

首都大都は陸海交通の拠点となり、人口は100万に達する大都市に なりました。

また、東西の交流の活発化により、イスラム商人ばかりでなくマルコ・ポーロなどのヨーロッパの旅行家や使節団が元を訪れるようになりました。

イス ラムの砲術、天文学、数学なども伝えられました。










 東方見聞録

マルコ・ポーロは、元からヴェネチアに帰国した後、ヴェネチアとジェノバとの戦争で捕虜になり、牢獄に入れられますが、ここで、同じ牢獄にいた、ルスティケロに、アジア諸国で見聞したことを話し、その内容を、ルスティケロが、編さんしたものが、東方見聞録です。

東方見聞録には、日本について、次のようなことが書かれています。

「ジパングは、・・・莫大な金を産出し、宮殿や民家は黄金でできているなど、財宝に溢れている。 また、ジパングの人々は偶像崇拝者であり、外見がよく、礼儀正しいが、人食いの習慣がある。」

当時、金を産出した場所は、八針(岩手県気仙沼郡)、今出山(岩手県大船渡市)、玉山(岩手県陸前高田市)、鹿折(宮城県気仙市市)、大谷(宮城県気仙市市)などで、三陸海岸に沿って並んでいます。

藤原清衡は、金箔を使用して、中尊寺金色堂を建て、屋根や内部の壁、柱などすべてを金でおおいました。

マルコ・ポーロが、話した、「莫大な金を産出し・・・」というのは、奥州の金産地のことであり、「宮殿や民家は黄金でできている」といのは、中尊寺金色堂のことではないかとも、思われます。

それにしても、このような話しを、マルコ・ポーロは、どこで誰から聞いたのでしょうか?








 南宋

次に、フビライは、中国の南半分を支配していた南宋を征服しようとしますが、激しい抵抗に遭い手を焼いていました。

フビライは、陸上での騎馬戦は得意でしたが、海上での戦いは、海軍を十分に持っていなかったため、苦手でした。

そこで、海上ルートを確保するために、南宋と貿易をしていた日本を支配下におき、海上からも、南宋を攻めようと考えました。

また、日本を元が支配すれば、南宋は孤立化するという考えもありました。

当時、日本は、南宋との国交はありませんが、民間どうしの貿易は、盛んに行われていました。

輸入品は、宋銭、陶磁器、絹織物、書籍や文具、香料や薬品、絵画などでした。

特に、宋銭の輸入量にはすさまじいものがあり、南宋は宋銭の輸出を制限したほどです。

これに対して、輸出品は、銅、硫黄、木材、日本刀などでした。






 高麗

一方、朝鮮半島の高麗では、三別抄(さんべつしょう)という軍隊が、独立を求めて、高麗王やモンゴル帝国に激しく抵抗していました。

高麗王の忠烈王(ちゅうれつおう)は、高麗から元の軍隊が引き上げないようにするために、元の皇帝に何回も、日本を属国にするよう勧めました。

また、三別抄が、日本に救援を要請していた事を知り(日本側は黙殺)、日本が三別抄と手を組んで攻め込んでくる危険性を考え、元の皇帝に、日本を属国にするよう勧め、先手を打とうと、考えていました。






 国書

このような、情勢から、フビライは、ついに、日本に、6回、国書を送ります。

第1回目の使者(1266年)のときは、高麗側が、モンゴル帝国が日本侵攻をすると、莫大な軍事費の負担をさせられるのを恐れていました。

そこで、元からの使者を巨済島(コジェド)まで案内し、海が荒れて、航海が危険であること、日本人は頑なで荒々しく礼儀を知らないことなどを話し、日本への進出は利益とはならないので、使者を出すのは、やめるようにと、説得し、使者らは、高麗の官吏とともにクビライのもとに帰朝します。

これを聞いたフビライは、かんかんに怒り、今度は、高麗がみずからの責任で使者を出すように命じました。


フビライが書いた、国書は次のようなものでした。

天のいつくしみをうける 大蒙古国の皇帝が、書を 日本国王に奉ず。

朕(フビライのこと)が思うのに、昔から小国の君主で 国境を接しているものは 通信 、親睦を修めるように 努めている。

まして我が祖宗(チンギス=ハンのこと)は 天命を受けて 区夏(中国)を 領有している。

遠い 異国の者も 我が威を恐れ 徳を慕ってくる者は 数えられないほどである。

朕が即位した当初は 高麗の無辜(むこ・罪がないこと)の民が 久しく 戦争に疲れていたので 命じて 出兵をやめさせ 高麗の領土を還し 老人や子供を その地に帰らせた。

高麗の君臣は 感謝し 敬い 来朝した。

義は 君と臣の関係ではあるが その喜びは 父子のようだ。

思うに 日本の君臣も またすでに これを知っているであろう。

高麗は 朕の 東の属国である。

日本は高麗に近く 日本の開国以来 また時に 中国とも交通をしている。

しかし 朕が即位してからは まだ 一度も使いをもって和交に通じることをしていない。

なお恐れるは 日本が そのことを いまだ 審らか(つまびらか・詳しく)に 知らないのではないかと。

故に 特に使いを遣わし 書を持参し 朕の志を布告させる。

願わくば これ以降 誼み(よしみ・親しく付き合うこと)を結び 互いに 親睦を深めたい。

且つ 聖人(皇帝)は 四海(天下)をもって 家となすものである。

互いに 親しく付き合うことをしないというのは 一家としての理があろうか。

兵を用いるを いったい誰が好もうか。

日本国王よ この点を よく 考慮せよ。  不宣(ふせん・手紙の終わりに添える言葉で、十分に意を述べつくしていないという意味)

至元三年八月 日





第2回目の使者(1268年)は、鎌倉まで行きましたが、北条時宗は、これを無視し、使者は、むなしく、7か月後に高麗に帰国し、その旨を元に報告しました。

第3回目の使者(1269年2月)は、対馬まで行きましたが、幕府から、日本に上陸することを拒否されたために、帰国しました。

第4回目の使者(1269年7月)は、第3回目の使者と同様に、対馬にとどまらせ、追い返しています。

第5回目の使者(1271年)の趙良弼は、大宰府までやってきましたが、返書はもらえず、代わりに日本からの使者が同行し、元に行きましたが、フビライは、日本が軍備の偵察に来たのではないかと、疑い、フビライに会うことができず、帰国しました。

第6回目の使者(1272年)は、前回と同じ趙良弼でしたが、やはり、返書を得ることはできませんでした。


結局、 北条時宗は1回も返書を出すことなく、無視し握りつぶしました。

そこで、フビライは、ついに日本を襲うことを実行します。