侵略の島

壱岐は、昔から、正体不明の賊(ぞく)や、新羅(しらぎ)の国からも侵略を受けています。

そのため、朝廷は、平安時代に、壱岐に、2つの関所と14箇所の火立場(のろし台)を設置しました。

また、金持ちで、手があいている豪族の子弟を集めて、警戒にあたらせました。

この兵を選士(せんし)と呼んでいます

さらに、弓矢よりも、はるかに強力な威力を持つ、ばねじかけで、矢や石を、長距離にわたって飛ばすことができる弩(ど)100脚も用意しています。



刀伊(とい)

刀伊という名前は、当時、高麗の北方、すなわち、満州を中心にして住んでいた、女真族(じょしんぞく)という、満州民族をさす名称です。

当時の女真族の一部は、高麗にも朝貢していました。

女真族は、中国東北部や沿海州を中心にして、住んでいました。

彼らの生活手段は、農耕、漁労、牧畜、狩猟でした。

特に、狩猟には優れたものがあり、馬には乗りませんが、弓矢を自由に使う、高度な技術を持っていました。































刀伊賊(といぞく)の進入

平安時代(1019年)、船50余隻、船の長さ15m前後、約3000人の中国東部の、沿海州に住んでいる刀伊賊が、片苗湾(かたなえわん)一帯から壱岐に上陸しました。

刀伊賊は、中国の北東部に住んでいた「女真族(じょしんぞく」のことで、朝鮮半島では「刀伊(とい)」と呼ばれていました。

賊は、高麗(朝鮮)、対馬、壱岐を侵略し、筑前まで攻めていきました。

100人が一隊をつくり、まず、20〜30人が刀を振りかざして切り込み、後ろの70〜80人が弓や楯を持って、続きました。

彼らが持っていた矢は、長さ4〜50cm、楯も射通すほどの貫通力がありました。

壱岐では、野山を自由に駆け回り、牛馬や犬を殺して食べたり、老人や子供は斬り殺し、働けそうな男女は船に連れ込み、中国まで連行しました。

民家は焼き払い、穀物も奪っていきました。

刀伊賊は、自分達で農耕をする習慣は持っていません。

その代わりに、よその国から
人間を拉致(らち)し、自国で農業をやらせていました。

壱岐の人たちも、刀伊で働かせるためにさらっていきました。

つまり、刀伊賊の目的は、領土の拡張ではなく、食糧や牛馬の略奪、奴隷にするための住民の拉致にありました。

拉致というのは、この当時からあったのですね〜。

この時代、壱岐を守っていたのは、藤原理忠(ふじわらまさただ)です。

理忠は、片苗湾の近くにある、軍馬の辻(いくさばのつじ)と呼ばれる小高い丘の上に、布代城(ふしろじょう)という館に住んでいました。

刀伊賊が上陸した片苗湾を一望できる場所です。

しかし、日本軍の戦い方は、矢合わせをして、個人戦という戦法でした。

これに対して、刀伊賊の戦い方は、集団で押し寄せるという、集団戦法でした。

とても、歯が立つ相手ではなく、理忠をはじめとして、148人が殺され、女子239人、男子若干名が捕虜として連れ去られました。

この周辺の地域で、生き残った者は、わずか、35人といわれています。









賊は壱岐のどまんなか、国分寺まで攻めていきました。

国分寺は3回にわたって、攻撃を受け、とうとう全焼してしまいました。

僧侶も16人殺されています。

国分寺にいた島内の寺院の総括責任者で、常覚(じょうかく)という僧は、刀賊賊が侵入したとき、他の16人の僧と一緒に必死に戦い、3回までは敵を追い払うことができましたが、とてもかなわず、1人で大宰府まで脱出し、このことを知らせました。

常覚が脱出して、大宰府に向かっている間、残された僧侶達は、必死に戦いましたが、最後には、殺されてしまいました。

この当時の、僧は、武術にも通じていなければならなかったようです。

写真は、国分寺跡です。






写真の石を積んだ塚は、地元では、「理忠(りちゅう)さんの墓」として、親しまれ、今でも参拝する人がいるほどです。

この墓のある場所を、軍場(いくさば)と呼び、周辺には、千人塚もあります。

積石は、自然石で積まれています。

積石のなかには、小形の宝篋印塔の一部もあります。

刀伊賊は、壱岐や九州北部を荒らしまわって、帰国する途中、高麗の待ち伏せにあい、全滅しました。

このとき、高麗は、日本人270人を助けて、日本に送り返しています。








侵略経路

1019年(寛仁3年)、3月27日、刀伊は、対馬に来襲しました。

国司の対馬守遠晴は、やっとのことで、島から脱出し、大宰府に逃れています。

殺害された者116人、捕えられた者230人、切り食いされた牛馬199頭。

続いて、壱岐を襲撃します。

殺害された者148人、捕えられた者239人。

4月7日、筑前国の怡土郡(いとぐん)、志摩郡、早良郡(さわらぐん)を襲います。

志摩郡の文屋忠光(ぶんやのただみつ)は、応戦し、敵を十数人倒して、撃退しました。

怡土郡(いとぐん)で殺害された者49人、捕えられた者216人、切り食いされた牛馬34頭。

志摩郡で殺害された者112人、捕えられた者435人、切り食いされた牛馬74頭。

早良郡で殺害された者64人、捕えられた者44人、切り食いされた牛馬6頭。

4月8日、博多湾内にある、能古島(のこのしま)を襲います。

殺害された者9人、切り食いされた牛馬68頭。

4月9日、博多に上陸し、警固所(けごしょ)や箱崎宮を焼こうとしますが、撃退され、再び、能古島にひきあげました。

4月10日、11日の2日間は、強い北風のために、海が荒れたために、襲撃を止めています。

4月12日、志摩郡船越津(ふなこしのつ)に上陸しましたが、待ち受けていた大宰府の兵により40余人を射殺、2人を生け捕りにします。

4月13日、肥前松浦郡の村々を襲いますが、撃退されます。