壱岐の捕鯨


鯨の宝庫

皆さんは、壱岐では江戸時代に鯨捕りが盛んだった、ということを聞くと、驚かれることでしょう。

江戸時代、壱岐周辺の海は、鯨の通り道になっていて、毎年、何万頭という鯨の群れが泳いでいました。

そのため、壱岐だけではなく、生月島、小川島、馬渡島(まだらじま)、平戸島(ひらどじま)など、壱岐周辺の島々にも、たくさんの捕鯨基地がありました。

当時、鯨組だけでも、73組もあったほどです。

捕鯨の本場、和歌山県の太地からもたくさんの鯨組が壱岐の方に進出してきました。

鯨を、最初に捕ったのは、江戸時代、唐津藩主の寺沢志摩守が、和歌山県の太地から、漁師を招き、小川島で、捕ったのが最初です。

鯨は、初冬(11月頃)になると、子どもを産むためにオホーツク海から日本海を通って、南下します。

また、早春(3月頃)になると、今度は子どもを連れた鯨が五島方面から北上します。

壱岐は、年2回、ちょうどこの鯨の通り道になっていました。

しかも、壱岐を通る鯨は大型のものが多く、このため江戸や紀州からもはるばる鯨をとるために壱岐に来ていました。

壱岐では、12月初めから7月の終わりにかけて鯨を捕っていました。

「うちかすむ 壱岐のわたりを見渡せば 鯨のいぶきたたぬ日もなし」という歌にもあるように、壱岐は古くからの有数の捕鯨基地でした。

しかし、壱岐の捕鯨は古くは弥生時代や古墳時代までさかのぼることができます。

弥生時代の捕鯨については、「原の辻」遺跡の章でお話してあります。









鬼屋窪古墳(おにやくぼこふん)


これは、鬼屋窪古墳(おにやくぼこふん)です。

 7世紀末の古墳時代後期に造られました。

 この古墳は長崎県では初めて発見された装飾古墳です。

 











線刻画

2ヶ所に捕鯨の線刻画があります。

ここの古墳は海岸の近くにあるので、被葬者は、漁労か航海に従事していた人物ではないかと推測されます。

3隻の舟があって、そのうちの1隻は、8本のかいがついています。

舟の前方に、鯨らしきものが描かれていて、この鯨と船首との間に1本の線が描かれています。

おそらく、銛(もり)が鯨に打ち込まれていて、1本の線は今で言うロープでしょう。

この絵の下の方にも2隻の舟が描かれています。

そのうちの、1隻の舟には5本の櫂(かい)が描かれています。

ただ、この時代の捕鯨は、海岸に漂着した鯨や、沖合いを漂流している鯨を引き上げたり、湾内に迷い込んだ鯨を囲んで、捕っていました。江戸時代のように、積極的に沖に出て、鯨を捕っていたのではありません。 

室町時代に、紀州熊野の鯨組の日高吉弥(ひだかきちや)が、壱岐に来て、鯨を捕りました。

これが、壱岐における最初の捕鯨といわれています。





勢子舟

江戸時代から明治時代にかけて、江戸の油屋、肥前大村の深沢義太夫、江戸時代最大だった生月の益富、平戸の谷村、勝本の土肥、瀬戸の布屋、芦辺の篠崎、郷ノ浦の許斐(このみ)など17の鯨組が、壱岐で鯨を捕りました。

これは、西八幡神社にある鯨を捕るための勢子舟(せこぶね)の絵馬です。

勢子舟の絵馬は非常に珍しいものです。

勢子舟は、鯨を追いかけて銛(もり)でつく舟です。

いわゆる、キャッチャーボートです。

勢子舟の長さは20m、幅は3m、重さは10トンくらいありました。

なんとなく、赤っぽい色をしていますが、この色は、鯨をおどかすためのもです。

誰が奉納したのか定かではありませんが、捕鯨業に従事していた人からの奉納と考えられます。

この写真からは、はっきりしませんが、上の絵馬の中央に、丸の紋があって、「初山村 明治廿・・年・・・西村」という書き込みと、牛の角の紋が描かれています。

丸の紋と牛の角の紋は、江戸時代に生月島を本拠地として鯨をとっていた益富組の家紋です。

壱岐にも進出していました。

益富又左衛門も、捕鯨を始めた当初は、なかなかうまくいかず、山に、首つりの場所を求めてさまよったと言われています。

しかし、その時、前方に立ちふさがった、牛を見て、自殺を思いとどまり、その後、牛の角2本を、益富組の旗印にしたほどです。

その、益富組は明治8年頃に解散しているので、明治20年代のこの絵馬が益富組が奉納したものとは考えられません。

答えはこれからの研究に待つところです。


鯨岩

 この石は何に見えますか?

 地上に出ている部分の長さは7mあります。

 地下の岩盤の一部が地上に出ているものです。

 壱岐を代表する玄武岩です。

 実は、これは、鯨石と呼ばれていて、大海原を泳いでいる鯨の背中のようにも見えます。

 この石が、鯨の背中に見える人は、相当の鯨通の人です。

かつて、鯨組の漁師達は、大漁祈願のためにこの石に参詣したといいます。

この石にお祈りすれば、大漁になるという言い伝えがあったからです。







鯨供養塔

捕鯨の最盛期には、毎年、鯨供養が行われ、各地に供養塔が作られました。

捕獲した鯨の霊を慰めるためと鯨組の繁栄のためです。

しかし、現在残っているのは、写真のような瀬戸浦にある供養塔だけです。

恵比須浦を見下ろすひっそりとした高台にあります。

江戸時代に造られました。

塔の高さは2.4mあります。

花崗岩(かこうがん)でてきています。

もともとは、海岸にあったものをこの場所に移動しました。

台石には、鯨で財をなした、瀬戸の布屋(ぬのや)、勝本の土肥(どい)、瀬戸の布屋、郷ノ浦の許斐(このみ)、芦辺の篠崎の名前が彫ってあります。





銛突き法

江戸時代には鯨はどのようにして捕っていたのでしょうか。

当初は、銛(もり)で突いて捕っていました。

もちろん、銛を打ち込まれた鯨は、暴れまわり、尾びれの一撃をくらって、舟が沈没し、海に投げ出された水夫が、血の臭いをかぎつけて、やってきた、ふかの集団に食われるということもありました。

子連れの鯨を効率よく捕獲するためには、先ず、子鯨から殺します。

このとき、母鯨は、一度は、逃げても、母性本能から、必ず、また、子鯨のところに戻って来て、子鯨の周りをグルグル周るという習性があります。

その時、母鯨も捕獲するというわけです。


これに対して、父親の鯨は、絶対に戻って来ません。

人間の世界ではどうでしょうか。

何となく、耳が痛い話しですね〜。







網捕り法

その後、網で捕るようになりました。

網で捕るようになってから、捕獲数は飛躍的に増加しました。

先ず、鯨に網をかけます。

網をかけられると、鯨は、泳ぐ速度が遅くなります。

そこに、たくさんの銛(もり)を打ち込んで、鯨を弱らせます。

弱ったのを、見計らって、鯨の背中に飛び乗り、頭に穴を開けて、綱を通して、くくります。

しばらくしてから、今度は、潜っていって、鯨の下側にまわって、とどめに心臓を突き刺します。

このような仕事は、普通の漁師にはとてもできません。

これを、専門にやっていたのが、次の章でのべる、刃刺(はざし)と、呼ばれている専門家の集団でした。


ところで、この網を作る原材料は、何だったのでしょうか。

最初の頃は、この網を、ワラを編んで作った、ワラ縄を使っていました。

しかし、ワラ縄は、弱く、何回も鯨に、網を切られていました。

そこで、壱岐のどこにでも、生えている、「カラムシ」という植物の繊維で作るようになりました。

カラムシの繊維は、とても丈夫で、縄文時代から、魚をとる網を作る材料として、利用されていました。

カラムシの繊維は、明治30年代まで使用されました。




背美鯨(せみくじら)

セミクジラは、皆さん、ご存じのように、背中に背びれがなく、ツルリとしていて、黒光がして美しい鯨です。

この鯨を発見したら、たとえ、他の鯨の捕獲中であっても、すぐに中止して、セミクジラの捕獲にとりかかります。

セミクジラは、他の鯨と違って、泳ぐ速度も遅い上に、とても好奇心が強く、また、死んでも沈まないので、捕獲しやすいという特徴があります。

さらに、セミクジラの肉は、他のどの鯨よりをおいしく、油もたくさんとれるからです。

2斗樽(36リットル)に、400〜500杯とれ、大きいセミクジラからは、1000杯もとれたと言います。

ということから、セミクジラは、とても重宝されていました。

セミクジラにとっては、迷惑な話ですが・・・・。





刃刺

鯨を捕るときには、暴れまわっている鯨に銛(もり)を何本も突き刺す人が必要です。

勢子舟の、船首に立って、鯨に銛を突き刺す人を「刃刺(はざし)」と呼んでいました。

刃刺になる人は、水泳はもちろん、長時間の潜りに耐えることができて、冬の海にも飛び込むことができる人でなければなりません。

壱岐では、小崎村(こざきむら)の海士(あま)だけがこの刃刺として活躍していました。

小崎村の人たちは、もともと潜ったり、突いたりすることを、得意としていました。

鯨を、銛で突くときには、遠くまで銛を投げれば良い、というわけではありません。

鯨に突き刺さった、銛の先が、自分の方を向くように刺さらなければいけません。

真っすぐに、向こう向きに刺さったのでは、鯨が、銛の綱を引っ張り、ピンと、綱が張ったときに、銛が抜けてしまうからです。

そのためには、銛を、天に向かって投げて、鯨の背中に、ブスリと刺さるようにしなければなりません。

この時が、刃刺の腕の見せどころ、というわけです。

何本もの銛を刺されて、鯨が弱ってきたら、刃刺は、海に飛び込んで、鯨の鼻を切り落とし、出て来た、鼻の穴に、綱を通します。

鼻に、綱を通した後は、鯨の腹の下に潜り、綱を、腹から背中にかけて、ぐるぐる巻きつけます。

そうして、鯨が、最後の大息をつき、一声、うなり声をあげたとき、全員で、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と、3度、唱えます。

鯨が、死んだら、2艘(そう)の、持双船(もっそうせん)と呼ばれている船で、綱で引っ張って、基地まで運びます。

刃刺は捕鯨のシーズンになると、身の回りのことをすべてやってもらっていました。

履物(はきもの)も自分では履かず、履かせてもらっていたほどです。

一度でいいから、こういう経験をしてみたいものですな〜。



これは、余談ですが、黒田藩では武士の訓練のひとつとして、幕末に鯨捕りをしました。

しかし、武道の達人達も、寒さにはかなわず、まったくのお手上げの状態だったといいます。

12月からの厳寒時に、海に飛び込んで、鯨を突いて、縄でしばるという荒仕事は、並みの人間ではできることではありません。


これも、余談ですが、刃刺の人の給金はどのくらいだったと思いますか。

刃刺の給金は、江戸時代後期の金額で計算すると、80万円〜500万円、と言われています。

すごいですね〜。







また、「深沢義太夫追善碑」については、龍蔵寺の章をご覧ください。

 



























土肥組

初代

江戸時代に、壱岐出身者で鯨を捕っていたのは、土肥市兵衛(どいいちべい)でした。

1
代目の土肥市兵衛(市三郎)は海産物商で平戸から来たと言われていますが、はっきりしたことは分かりません。


2代目

2代目土肥市兵衛は鮪(まぐろ)網で儲けたと言われています。


3代目

3代目の土肥甚右衛門のとき、瀬戸浦で、芦辺篠崎、瀬戸布屋組など5名共同で鯨組を出し(17111715)、享保2(1717)には恵比須浦で鯨の供養塔を5名で建てました。

土肥組が独立したのは、この3代目の土肥市兵衛のときです。

3代目の土肥市兵衛能満寺の本堂を寄進したり、聖母神社の拝殿を造営しました。

鯨の捕獲は、1つの基地で行うのではなく、秋から冬は、北から下ってくる鯨を捕り、冬から春は場所を変えて、北上する鯨を捕っていました。

土肥組は対馬の西岸まで出かけて、鯨を捕っていました。












4代目

4代目の土肥市兵衛(秀睦)のときが全盛期で、聖母神社の本殿を総けやきの厚板で造営寄進したり、長さ90m余、高さ7m余の大塀も造っています。

土肥組は平戸、対馬、大村周辺まで出かけて鯨をとり、1年間の捕獲頭数は200頭を超え、鯨王と呼ばれるようになり、鴻池、三井とともに日本の三大富豪になりました。

土肥組の場合、最漁期には操業船56隻、従業者858人で、壱岐での捕獲頭数は年平均27頭、「鯨一頭しとめれば七浦うるおう」といわれました。

乗組員に対しても待遇が良くて、「一度乗りたや千石船に、船は勝本土肥の船」、また、「千両出しても乗りたい船は、壱州勝本土肥の船」と、周囲の羨望をかっていたほどです。

この、4代目の土肥市兵衛は、阿呆塀と呼ばれている場所に、豪華な新宅を建てました。

さらに、
田ノ浦の納屋場を拡張したり、さらに広島と大阪にも鯨の出張販売所を作ったりして、鯨の売り上げを伸ばしました。

当時、大阪の長者番付では第1位が鴻池、第2位が土肥でした。

また、鯨で大儲けした
土肥市兵衛は、京都の祇園で毎晩ドンチャン騒ぎをし、気に入った祇園の芸者や舞妓数十名を勝本に連れ帰り、冬の別荘として建てた大久保屋敷等に住まわせました。

そして、
買い取った女達は鯨組で働いている功労者に与えました。

性病も当時、相当、流行しました。


衰退

8代目の頃から、英米の捕鯨船が乱獲したために、壱岐にやってくる鯨が少なくなりました。

創業以来160年後の9代目の土肥平吉郎のとき、安政年間(18541859)に解散しました。

ここに、400年続いた壱岐の鯨組も幕を閉じました。


小麦(こむぎ)さま

ここに、土肥市兵衛の出生についておもしろい話しがあります。

出典は「松浦家旧記」です。

豊臣秀吉が朝鮮出兵を命じ、松浦鎮信(まつうらしげのぶ)らが、朝鮮の首都漢城を占領したとき、残党狩りで付近を探索していました。

そのとき、小麦畑の中に隠れ、恐怖に震えている
1人の美しい娘を家臣が見つけ、松浦鎮信に差し出しました。

その娘は小麦畑で発見されたので、小麦様と呼ばれるようになりました。

このような、名前の付け方もあるものですね〜。

さて、この小麦様は、朝鮮の李朝第14世、昭敬王の姫の廓清姫(かくせいひめ)だともいわれています。

鎮信は、あまりにも美しいため、小麦様に身の回りの世話をさせていましたが、そのうち、朝鮮各地を戦争で周るときに、手をつけ、小麦様は妊娠しました。

朝鮮から、帰国の途中、小麦様は、玄界灘の船の中で男の子を産み、「この子を身近において、わが手で育てたい」と言いましたが、鎮信は、壱岐の島に捨てるように言いました。

彼女は、涙に震えながら、赤ん坊を松浦家の家紋である三つ星を染め抜いた布にくるみ、一振りの短刀を添えて、若宮島の海岸に捨てました。




















それを、神皇寺(今の阿弥陀堂付近)の僧が拾いあげ、周りの人たちからもらい乳をして育てました。

その子供は、市三郎と名づけられ、
6、7歳の頃、渡良の大島の彦三郎という商人の養子になりました。

小麦様は、大島で子供が暮らしていることを知り、ひそかに大島で、市三郎と彦三郎に会いました。

そして、松浦蔵人に引き取らせ、世話をさせました。

松浦蔵人も何とかして直参として世に出したいと苦慮しますが、特別に武士として手柄をたてるわけでもなく、かといって、足軽にもできず、悩んでいました。


結局、今のままでいるよりも、商人で身を立てさせたほうが良いということになり、勝本浦に住みついて、海産物の取引をして、一財産を築きました。

そして、その市三郎の子が、捕鯨業を始め、莫大な富を得て、松浦藩に献金して、名字帯刀を許され、武士に取り立てられました。

この市三郎の子が、鯨組、土肥家の初代の土肥市兵衛と言われています。

小麦様は鎮信の死後、髪をおろし、平戸の根獅子(ねしこ)に移り住み、側室として40数年の生涯を終えました。

根獅子(ねしこ)に「小麦様」と呼ばれた人の墓があります。

この、小麦様の正体については、王女ではないという説もあります。

松浦家旧記にも、小麦畑に隠れている「宮女」を見つけ、とあり、「王女とか王の娘」とは書かれていません。

また、日本軍が攻めてきたときは、王、皇后、子供たちは離れて暮らしており、別行動をしています。

これは、親子共に災難に会い、王家が滅ぶことがないようにするためです。

王やその一族は日本軍が、漢城(今のソウル)に入る4日前に、城を脱出し、遠く離れたところにいました。

「王女」が、1人逃げ遅れることは考えられないというわけです。

さらに、朝鮮出兵のときに、2〜3万人の陶芸家や職人を拉致し、日本に連れ帰りました。

この連れ帰った人たちを、第1回目の朝鮮通信使が来たときに、拉致された朝鮮人の名簿を提出し、全員朝鮮に帰してほしいと、江戸幕府に頼んでいます。

このとき、小麦様については、その素性を、地方の高級官僚の娘である、と言っています。

「朝鮮王室史」にも小麦様のことについては何も書かれていません。

これらを総合して考えると、小麦様は、王女ではないというわけです。

あなたは、どちらの説をとりますか。

どっちの説をとるにしても、小麦様は、一生を異国の地で、悲しみにくれて終えたわけです。

小麦様が病気をしたときに、「一度、朝鮮に帰らせてほしい」と、と頼みましたが、聞き入れてもらえませんでした。

朝鮮侵略で拉致された他の人たちも、毎日、望郷の念にかられていたことでしょう。

その無念さが良く分かります。

北朝鮮に拉致された日本人も、また、同じような気持ちでいることでしょう。


松浦信正

小麦様は、朝鮮から帰国の途中、船中で男子を産んだことは、前述しました。

小麦様は、3人の子どもをもうけています。

そのうちの次男が
松浦信正と言われています。

その後、松浦信正は、平戸藩の家老となり、根獅子、獅子、生月に3千石の領地を与えられました。

そして、第1回目の朝鮮通信使が来たときに、信正は、接待役を命じられ、そのときに、通信使から母である小麦様の出身地を聞くことができました。

小麦様は、息子の信正の領地である根獅子で、その生涯を閉じました。

3人の子どものうち、1人は松浦信正、1人は土肥市三朗までは分かりますが、残りの1人はどうなったか分かりません。



土肥家

小麦様が、船の中で産んだ赤ん坊を、松浦家の家紋である三つ星を染め抜いた布にくるみ、短刀を添えて、若宮島の海岸に捨て、その赤ん坊を、神皇寺の僧が拾いあげ、育てたというお話をしました。

しかし、このとき、その赤ん坊を拾って育てたのは、勝本の町人土肥甚三郎である、とも言われています。

そして、今、土肥家にはその時の布や短刀があるとも言います。


確認はしていませんが、そのような話しも伝わっているのです。








阿呆塀(あほうべい)

壱岐の勝本浦散策 阿呆塀参照。




















解体場跡

壱岐の勝本浦散策 解体場参照。