お宝伝説


王子五郎伝説


勝本町立石触に片苗新田(かたなえしんでん)という場所があります。

この周辺には大和朝廷の時代から百済、新羅、高麗、支那の船が貿易のためにひんぱんにやって来ていました。

平安時代に、中国から刀伊賊(といぞく)という、略奪集団が上陸したのもこの海岸です。

ここの新田に流れ込んでいる川を刈田院川といって、古くは壱岐の島を2つに分けている川でした。

この刈田院川の周辺に王子五郎という長者が住んでいました。














ある日、王子五郎は従者1人を連れて、高嶽(たかだけ)という山の頂上に黄金を埋めました。

そして、その目印に白椿の木を1本植えました。

宝を埋めて帰る途中で、王子五郎は刈田院川にかかっている橋の上で、口封じのためにその従者を切り殺してしまいました。

従者は殺されるときにあたり周辺に聞こえるような大声を出して、高嶽に黄金を埋めて白椿の木を1本植えた、みんなで盗め、とわめきながら死んでいきました。

王子五郎は宝を掘り起こされては困るので、その後、白椿の花を1000本植えて分からないようにしたということです。

今は廃寺になっていますが、王子五郎は覚音寺(がくおんじ)という立派なお寺を建立しました。

そのお寺は、壱岐では唯一の唐寺(からでら)で、22対の立派な仏像や鐘がありました。

その覚音寺に王子五郎の遺書があり、「朝日さす夕日輝く木の下に黄金千無量埋む。後世観音造営のため」と記されていました。



さて、この王子五郎の正体はなんだったのでしょうか。

この地域を根拠地にした倭寇という海賊の首領ではなかったかといわれています。



























王子五郎の墓の前にはお堂があって、そのお堂の中には右のような観音様がおられます。

さて、かんじんのお宝ですが実はまだ発見されてはおりません。

お墓は山の頂上にあります。

白椿の木はお墓の周囲には1本もありません。

上の写真では赤い椿の花がさしてありますが。

でも、お宝が埋めてある周辺には白椿の花が咲いているかもしれません。

なにしろ、1000本植えたのですから。







実は、王子五郎にはもう1つの伝説があります。

王子五郎はにわとりをたくさん飼っていました。

しかし、いつも蛇がやって来てにわとりの卵を食われていました。

王子五郎は怒って、木で卵の形を作り、本物の卵と一緒に巣に入れて置いたところ、案の定、蛇がやって来て、これを卵と思って飲み込んでしまいました。

当然、木の卵ですから蛇は腹の中で割ることができません。

7日7夜苦しんで蛇はとうとう死んでしまいました。

ところが、それから蛇のたたりがあり、五郎や付近の住民は困ってしまいました。

五郎は、そこで、蛇が剣ににからんだ様子を石に刻んで、これを蛇神様として祀りました。

その後、たたりはなくなったといいます。

左上の写真のものが王子五郎が作ったという蛇神様です。

大きさは約40cmあります。

砂岩でできています。



お宝地蔵

さて、次に登場するお宝は伊藤小左衛門(いとうこざえもん)が埋めたというものです。

右のお地蔵さんはその伊藤小左衛門が博多で作らせたものを壱岐に持ってきてここに据えたものだといわれています。

江戸時代の初め、博多呉服町に伊藤小左衛門という2代続いた豪商がいました。

表の顔は黒田藩の御用商人で、朝鮮から大阪までをまたにかけて活躍していた大金持ちの商人でした。

主に、鉄製品の売買や加工をしたり、各地の特産物の売買をしていました。

また、黒田藩の許可を得て「伊藤小判」という貨幣も発行するほどの権力もありました。

しかし、伊藤小左衛門には裏の家業もありました。

それは、壱岐に基地を置いて、禁制品の密貿易と海賊をやっていました。

当時、江戸幕府は鎖国をしていた時代です。

小左衛門は、幕府が御朱印船以外は海外貿易を禁止しているにもかかわらず、帰国する前には必ず船を壱岐に着け、海外で買い集めたり、略奪したりして手に入れた財宝の一部をひそかに陸揚げし、壱岐の秘密のある場所に毎回隠して埋めていました。

ところが、朝鮮に武器を輸出しようとしていた時に、暴風雨に会い、船が難破し、対馬の鰐浦に漂着してしまい、ある者がおそれながらと、訴えたために抜荷がばれてしまいました。

長崎奉行の厳しい追求により、北九州各地にいた商人、船主、通訳、刀剣の製造業者などおよそ100名ほどの者が捕まり、大規模な密貿易の全容が明らかになり、小左衛門以下、一族郎党を含めて数10名がはりつけの刑にされてしまいました。

しかし、母子3人は助命されたともいいます。

小左衛門は49歳でした。



一方、小左衛門は信仰心も厚く、この地にあったお寺の山門に、博多で作らせた2m余りの地蔵尊を寄進しました。

お地蔵様は花崗岩(かこうがん)でできています。

壱岐の人々は、この地蔵様を小左衛門地蔵と呼び、家内安全、無病息災、商売繁盛の守り尊として扱い、霊験あらたかでご利益をもたらす地蔵尊として、300年以上も経った今でもお参りする人が絶えません。

また、昔から、ここにお参りすると大金持ちになれるともいわれています。


伊藤家一族の墓は、福岡市博多区御供所町(ごくしょまち)の妙楽寺(みょうらくじ)にあります。

妙楽寺は、もともとは、博多の北浜にありましたが、火事で焼失したために、今の場所に移しました。

ずいぶん、長い参道です。















右の写真は、伊藤小左衛門一族の墓です。

とても大きな墓石です。








この周辺には、聖福寺をはじめとして、たくさんの素晴らしいお寺があります。



問題は、小左衛門が壱岐に隠したという莫大なお宝のゆくえです。

お宝はどこにあるのでしょうか。

処刑されたときに没収された財産が250万両といわれていますから、裏で隠されている財産は250万両どころではありません。

今の貨幣価値で換算すると約1400億円ともいわれています。

隠されたお宝の一部は、処刑されなかった部下の九三郎という男が掘り出して、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)をして暮らしたといいます。

九三郎は息子にもそのお宝のありかを教えたといいます。

しかし、何か思いもかけないことが起こりそこには近づかなくなったということです。

お宝は、お地蔵様の視線の先に埋めてあるとか、お地蔵様の周囲の地中に埋められているとか言われています。

いずれにしてもこの周辺にあるのは確かのようです。

さて、この地蔵。

水をさすわけではありませんが、実は、壱岐の鯨組の許斐小佐衛門(もといこざえもん)が寄進したとも伝えられています。

とすれば、お宝が埋まっていることは怪しいとも思われます。


お伊勢様

これもお宝にからんだお話です。

ここは石田という場所に伝わるお話です。

今から、400年も前の話です。

この周辺に住んでいる長者がお宝をこの周辺のどこかに埋めました。

それを知っているのは下女のオイセでした。

長者は口封じのためにオイセを殺しました。

たたりを恐れた長者は左の写真のような祠を造りオイセを祀りました。

民家裏山の古びたお堂の陰にこのオイセの石祠があります。

石祠といっても、石の箱に石の戸をはめ込んだだけのものです。

扉には、「慶長13年・・・願主助左エ門」と刻んであります。







さて、時は流れて昭和になりました。

昭和35年、農家のあるじがオイセのお堂の近くにある、自宅の裏山をみかん畑にするために開墾をしていたら、中国の古銭がきっしりつまった壷を掘り当てました。

壷は15世紀に中国福建省で作られたものであることが分かりました。

壷の中に入っていた古銭は、中国製の銅銭で、一部、朝鮮、琉球のものも混じっていました。

日本の年号では、奈良時代、室町時代のものでした。

出土した数は4510枚でした。

特に、琉球で造られたという貨幣は、今、現在、琉球でも発見されていない貴重な価値のある貨幣でした。

問題は、ここで発見された大量の古銭が長者が埋めたというお宝であるか、ということです。

みなさんはどう思われますか。

私は、多分、他にもっとあるのではないかとも思っています。