壱岐の龍蔵寺



龍蔵寺

 曹洞宗。壱岐の曹洞宗のお寺の本寺です。

 室町時代に開山されました。

 当初は、真言宗でしたが、江戸時代に曹洞宗になりました。

 本尊は地蔵菩薩です。

 現在のお寺は、再建されていますが、堂々たる風格の建物がたくさん並んでいます。

まさに、曹洞宗の本寺にふさわしく、威風堂々としています。



誕生仏

右の写真は、誕生仏です。銅像です。

向かって右の誕生物は平安時代の作りで、高麗仏。

短い裳(も)を身につけています。腰蓑(こしみの)のようにも見えます。

左の誕生仏は、江戸時代の作りです。どこが違うのか、じっくりご覧ください。

お釈迦様は、生まれるとすぐに、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」という、第一声をあげたといわれています。

この意味は、天上天下に自分という人間はただ一人(ひとり)しかいない、誰も代ることができないただ一人の存在である、だから尊い」ということです。

ということは、存在しているすべての人たちはみんな尊い、だから、自分を大切にすると同時に、他人も大切にしないといけません、ということです。

右側の古い方は、なんとなく、ポッチャリしていて、ふくらみがある肉体になっています。

台座は7角形で、後から、くっ付けたものです。

台座の形からすると、李朝時代の制作ともいわれていますが、はっきりは分かりません。


鯨組


 これは、深沢義太夫(ふかざわぎだゆう)の追善碑です。

 壱岐では、昔から鯨捕りが盛んに行われていました。

 深沢義太夫は、安土桃山時代に、長崎の大村で生まれ、その後、紀州太地(たいじ)で、鯨捕りを学び、大村に帰り、大村を基地として鯨組を組織しました。

 その後、次々と、基地を増やし、大村だけではなく、壱岐の恵比須浦、生月、五島などで、年間数百頭の鯨を捕り、巨万の富を得ました。

 龍蔵寺にある、この初代深沢義太夫(勝清)の碑は、壱岐で鯨を捕っていた時代に建てられました。

高さは95cmあります。

深沢義太夫は、龍蔵寺の客殿を造り替えたり、また、その一族は梵鐘(ぼんしょう)を寄付したりしています。

深沢義太夫は、捕鯨で得た、利益の大部分を、新田の開拓や、ダムの構築につぎ込みました。

このため、義太夫が亡くなった後、龍蔵寺の日峰和尚が彼の菩提を弔うために、このお寺の墓地に、感謝の念を表すために、自然石ではありますが、「青山浄運居士」と刻んだ塔を建てて冥福を祈りました。


六地蔵

これは、六地蔵の石塔です。

石塔の周りに、六個のお地蔵様が彫ってあります。

人間は生きているときに、どのような生活を送っていたかにより、死後に行く世界が決まるといわれています。

死後に行く世界は、6つあって、地獄、飢餓、畜生、修羅、人間、天国に区分されます。皆さんたちが行く世界は、この6つのうちの1つになります。

で、この6つの世界のそれぞれを表しているのが6地蔵というわけです。

龍蔵寺のこの石塔は、逆修供養(ぎゃくしゅくよう)のために建立されたものです。

逆修供養というのは、自分の生存中に、自分自身の死後の冥福を祈るために、供養をすることです。

死んでから、行うよりも7倍のご利益(ごりやく)があるそうです。

享禄(きょうろく)元年(室町時代)の銘があります。

石塔の高さは、1.13mあります。


大樹

 このイチョウの木は、住職の話では、壱岐では2番目に古いイチョウの木だということでした。

 イチョウは、古くなると、枝や幹から、乳房状のこぶができて垂れ下がります。

 このイチョウの木にも、乳房状の垂れ下がっているこぶが20数個あります。

 もちろん、めす株で、樹勢も旺盛で、まさに生きている大イチョウです。

 幹周り5.6m、高さ25mあります。

 秋になると、たくさんのぎんなんが落ちて、食べきれないくらいです。
 
ほうきで掃き寄せて、いつでも、ご自由にお持ち帰りください、という感じです。

茶碗蒸しの中にぎんなんを入れるととてもおいしいですよ。


線刻地蔵

これは、線刻地蔵です。

縦1mくらいの石にびっしりとお地蔵さんが刻みこまれています。

いったい、誰が、何のために、と思いますが、お寺にあるので、供養のために、線刻したのでしょうか。

詳しいことは分かっていません。








キリシタン


 左の写真は、隠れキリシタンが、信仰していた石塔です。

 ハートのマーク、T字の線刻があります。

 壱岐のお寺にはキリシタン関係のものがたくさんあります。