芦辺浦の散策


芦辺浦

芦辺浦は、瀬戸浦と海を隔て相対している港町です。

室町時代の初め頃、深江村で陰陽師をしていた孫左衛門という人が、ここに移り住み、井戸を掘り当ててから、人々がたくさん、居住するようになりました。

芦辺浦と呼ぶようになったのは、中世の頃からで、それまでは清滝村と呼んでいて、たくさんの「葦」が生えている葦原でした。


寛永初年(1624)、長門国長府(山口県下関市)に、篠崎隼人という人がいて、長府の豊浦宮・住吉神社をここ芦辺浦に遷し、自らも住むようになりました。

篠崎隼人は、長府住吉神社の社家の子で、住吉神社がここに造られてから、長府にあった豊浦宮の豊の字をとって、ここを豊浦(ゆたかうら)と呼ぶようになりました。


この頃から、石垣を築き、海浜を埋め立てて、町を開いて来ました。

今でも、町の広さの半分は埋め立て地です。

ここには、壱岐市の芦辺支所もあり、行政の中心地です。


芦辺浦は、火事が多い所でもあります。

寛永12年、承応2年、寛文4年、同10年、同11年、同13年と火災が多発し、西部は全焼しました。

そのために、寛文13年(1673)、平戸藩主の松浦鎮信が、豊浦の名を改めて芦辺浦にするように命じました。


しかし、この後も、何回も火災が発生しています。

昭和の時代には、この港から壱岐と博多を結ぶ連絡船が出ていました。

しかし、港が浅いために、はしけで、沖に停泊している本船に渡らなければならず、人々はとても難儀をしていました。

そのために、今では、対面している瀬戸浦に新しく港をつくり、今は、そこから博多行きの船が出ています。



ひのこ坂

芦辺の辻のふもとに、「樋の子川」が流れる、この川の周辺を「ひのこ坂」と呼んでいます。

享保2年(1717)夏、壱岐は、日照りが何日も続き、野山の植物や田畑の作物も枯死寸前でした。

飲料水も欠乏し、村民たちは飢饉にひんしていました。

そこで、農民たちは雨乞いの祈祷を、二人の人物に頼みました。

一人は、芦辺浦の住吉神社の陰陽師後藤左京、もう一人は、諸吉にある龍蔵寺の日峰和尚でした。

二人は7日7夜の間、雨乞いの祈祷をすることになり、もし、雨が降らなかったら、自らが人柱になって、雨を乞う、と、いうことになりました。

後藤左京は、八幡半島の突端にある、断崖絶壁の観音岬で祈祷をしました。

この断崖絶壁の場所を選んだのは、万一、雨が降らなかったら、ここから海に向かって投身し、人柱になるためでした。


一方、龍蔵寺の日峰和尚は、ここ芦辺の辻で、麦わらを積み上げ、火を焚いて祈祷師、万一の場合は、自分に火をつけ、焼身成仏をする覚悟でした。

開始の合図の烽火は、天をこがすほどでした。

7日7夜、人々は一心不乱に雨乞いをしました。

しかし、満願の日が来ても、雨は一滴も降りません。

日峰和尚は、最後の読経を捧げ、もはやこれまでと決心し、積んであった麦わらに、火をつけさせました。

燃えさかる炎の中に飛び込んで、焼身し、自らの命と引き換えに、雨を乞おうと、火の中に一歩飛び込んだ時に、バケツをひっくり返したような、豪雨となりました。

雨は、田畑を潤し、枯れかかっていた作物は生き返り、人々も飢饉から救われました。

この日峰和尚が身に付けていた、一部焼けた法衣が、今も龍蔵寺に寺宝として、保管されています。

「ひのこの坂」は、烽火をつけるために芦辺の辻に向って上った人と、たいまつに火の子をつけた人が芦辺の辻に向かって場所です。

後藤左京については、壱岐の左京鼻を参照してください。



壱岐市消防団芦辺地区第一分団

江戸時代から、この港町は、何回も火災にあいました。

そのたびに、消火活動の大切さをここに住んでいる人たちは身に持って感じていました。

現在、江戸時代の火消しは、「壱岐消防団芦辺地区第一分団」として、引き継がれています。

ところが、この「壱岐消防団芦辺地区第一分団」の団員たちは、消防操法大会の全国大会で優秀な成績を納めています。

昭和57年(1982)、「第8回全国大会」優勝。昭和59年(1984)、「第9回全国大会」準優勝。平成22年(2008)、「第21回全国大会」準優勝。平成20年(2008)、「第22回全国大会」準優勝。

その間、優良賞も3回受賞しています。

昭和60年(1985)、この偉業に対し、「県民表彰」が贈られています。




神楽桟

住吉神社の御神体が、大漁祈願のために、芦辺浦に出る時には、ここに集まります。

また、住吉神社の神が、海から上がって来る時にも、ここで休まれます。

この場所を土地の人々は、「かぐらさん」と呼んでいます。







住吉神社


由来

長州(長門国)豊浦郡の社人、篠崎隼人が清滝浜に来て、豊浦の住吉大明神を勧請して、この地を豊浦(ゆたかうら)と名づけました。














祭神

祭神は、住吉大神である、表筒男命(うわつつお)、中筒男命、底筒男命と、天照大神、神功皇后、式内大臣(たけうちおおおみ)です。

寛永6(1648)、江戸時代、宝殿、拝殿の再建のとき、平戸藩主の国司松浦鎮信の棟札があります。

住吉大神は、航海安全、家内安全、安産の神です。



鳥居

社殿の正面に参道がなく、脇に鳥居と参道があります。

鳥居は、寛文十二年卯月造立です。

笠木、島木、額束(がくつか)が無くなっています。

 

狛犬

壱岐の名工山内利兵衛の作です。

すばらしい表情をしています。

玉をくわえています。












祠石

ここには、天神祠、恵比須祠、矢保佐祠、稲荷祠などがならべてあります。


















墓碑

境内には、寛永4年(1852)に建てられた、篠崎家三代の碑があります。
















お祭

芦辺浦にある住吉神社では、毎年、旧暦の9月7日から9日までの3日間、にぎやかなお祭りが開催されます。

旧暦
9月7日は「注連おろし」、旧9月8日は「大神楽」、旧9月9日は「御神幸」と3日間続きます。

安永7年(1777)につくられた「柳沢家所蔵文書」の中に、安永6年(1778)に住吉神社の御幸船、祇園囃子を奉納したとの記録が残っています。

それから考えると、このお祭りの起源はそれ以前であることは明確ですが、その詳細は不明です。

御幸船

住吉神社の例祭のとき、御幸船が使われます。

木造で褐色の漆塗り。

御幸船は、船の中心に
2層の楼があり、船の長さ3.4m、幅1.0m、台車から楼の屋根までの高さ2.6mあります。

壱岐のフナグロは、この神事をルーツにしているともいわれています。

この御幸船は古い形式を守っている貴重なものです。
 

旧9月7日、今年の町内の当番が、住吉神社で御幸船を受けて、漁船に、囃子方と共に乗せて、港を太陽の回る方向に3周した後、戎神社に上陸し、商売繁盛・家内安全を祈願します。

御幸船に乗っている囃子には、大胴、鼓、釣鐘、三味線、笛、太鼓などが使われ、とてもにぎやかです。

翌旧9月8日には、「こども相撲」、「大神楽奉納」、「ちんちりがんがん」という行列が行われます。

旧9月9日には、御旗の奉納、囃子行事、御幸船行事が行なわれます。

囃子行事では、笛、太鼓、三味線などを使った囃子が、商売繁昌、家内安全、健康長寿などを祈って、町内を練り歩きます。














ちんちりがんがん

毎年旧9月8日に芦辺浦で開催される住吉神社の前夜祭です。

江戸時代に、芦辺浦の若者衆が町の繁栄を願い、神功皇后の祭神を町に繰り出したのが、起源といわれています。

この日は、笛、太鼓、三味線を使った囃子が、商売繁盛、家内安全等を祈願して、各戸を練り歩きます。

この時の、囃子の音が「ちんちりがんがん」と聞こえることから、この練り歩きの事を、「ちんちりがんがん」と呼ぶようになりました。

この「ちんちりがんがん」は、「長崎県地域文化章」も受章しています。


天徳寺

曹洞宗。

本尊は地蔵菩薩。

天正19年(1591)に建立されました。

平成6年に、位牌堂を総工費1億7千万円かけて完成しました。

平成21年には、本堂と庫裡、山門を1億3千万円をかけて新築しました。

いや〜、それにしても檀家の人がお寺や神社を維持していくのは大変です。

私の住んでいる所にあるお寺も、いつ壊れてもいいくらいのぼろぼろの状態で、建て替えのための資金を積み立てています。

明時代には、このお寺に子供たちを集めて、芦辺小学校が開校されています。

毎年、夏休みには、子供たちを対象にして、禅の集いが行われています。

壱岐四国霊場八十八番のなかの十六番札所でもあり、御詠歌教室も開催されています。


玉光神社

祭神は、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、稲荷大明神です。

昭和の初め頃は、大神楽や子供みこしが開催され、浦の人々が信仰していました。

今は、当時の面影を残すだけの神社になっています。









清滝

江戸時代に書かれた古文書に、ここから湧き出ている水について、次のように書かれています。

清滝観音堂の傍から出て、土中を流れ、それより、石樋を418寸余、流れ落ちる

旱雨といえども、増減なき清水なり。

よって、名とす。

とても、致景の勝地なり

当時は、ここから、澄み切った水が流れ落ち、又、この上の高台からは、芦辺浦が一望できる、場所でした。

今でも、水が年中、湧き出ています。




清滝観音堂

壱岐国三十三番札所のなかの第七番札所です。

御詠歌7番 けさ見れば つゆ岡寺の庭の苔 さながら瑠璃の 光なりけり

また、壱岐四国八十八番霊場のなかの第八十一番奥之院でもあります。

急斜面の途中にあり、昭和48年に地滑りで壊れたために、再建しました。

壱岐国三十三番札所については、壱岐の三十三カ所巡礼(1)壱岐の三十三カ所巡礼(2)を参照してください。

壱岐四国八十八番霊場については、壱岐の八十八カ所巡礼(1)壱岐の八十八カ所巡礼(2)壱岐の八十八カ所巡礼(3)を参照してください。







孫左エ門井戸

室町時代の初め頃、深江村で陰陽師をしていた孫左衛門という人が、ここに移り住み、井戸を掘り当てました。

これ以後、人々がたくさん、居住するようになりました。

この井戸、今も枯れることがなく、使用されています。

この井戸の後は、清滝と呼ばれている水が湧き出ている水源があります。











みさきさん

ここ芦辺浦には、「みさきさん」と呼ばれている御崎神の祠が5つあります。

初めは、今よりも海岸寄りにありましたが、海岸線の埋立をしたことによって、より奥の方に移転しました。

毎年夏に、お祓いをします。








戎神社

昭和13年、安泊の人達が建立しました。

芦辺浦にある住吉神社の末社です。

芦辺浦の鬼門除けになっていて、江戸時代に何回も火災に会い、その大火が止まった場所を向いて、御神体が座っています。

商売繁盛、大漁祈願、豊作祈願の神様です。













千人堂

鎌倉時代、壱岐は2回の元寇の被害を受けました。

千人堂は、元寇で犠牲となった多くの人々を弔うために造られました。

毎年、お盆と十夜のときに、地域の人々によって、供養が行われます。

元寇については、壱岐の元寇総論壱岐の文永の役壱岐の弘安の役を参照してください。
















この元寇のときに、元軍が使用した碇石が、御神体として、祀ってあります。

昭和26年の台風で、防波堤や本堂が壊れてしまい、昭和32年に新堂が完成しました。

平成元年にも、建て替えが行われています。






















安泊行者堂

壱岐四国霊場八十八カ所の第十九番奥之院です。

修験者が、芦辺浦の人々に伝道を説いた行場でした。

弘法大師、観音像、稲荷大明神が祀られています。

明治24年に新築されたという碑が立っています。








種徳院

壱岐四国霊場八十八カ所第十八番札所です。



















本尊は釈迦如来。脇士文殊・普賢菩薩。

現在は、廃寺になっています。














稲荷神社

鳥居には、寛政十年(1799)四月という年号が刻まれています。



















碇石

墓標には、元寇720年記念 平成13年5月とあります。

芦辺港の沖にある馬の瀬沖の海底から引き揚げたものです。




















妙法寺

日蓮宗。

本尊は日蓮、釈迦如来です。















天神川大師堂

壱岐四国霊場八十八カ所第十七番、第十九番札所です。

本尊は釈迦如来。脇士文殊・普賢菩薩。

壱岐四国八十八番霊場については、壱岐の八十八カ所巡礼(1)壱岐の八十八カ所巡礼(2)壱岐の八十八カ所巡礼(3)を参照してください。















樋川堂

壱岐四国霊場八十八カ所第二十番札所です。

本尊は地蔵菩薩。


















この碇石は、芦辺港の沖にある馬の瀬沖で、海女さんが海底で作業中に、発見し、海底から引き揚げたものです。

この石があった海底の周囲には、このような岩石はないので、元寇の折りに、元軍が使用していた碇石ではないかと思われています。

碇石には、なぜか、「四国遍路供養塔」、と刻まれています。

壱岐四国八十八番霊場については、壱岐の八十八カ所巡礼(1)壱岐の八十八カ所巡礼(2)壱岐の八十八カ所巡礼(3)を参照してください。















壱岐電灯発祥の地

大正3年(1914)、田川村長だった長嶋主悦が、壱岐出身の電力王、松永安左衛門の協力を得て「壱岐電灯株式会社」を設立しました。

ここは当時、清石浜入口にあたり、原野でした。

火力発電所を建設した当初の電力は、僅か75馬力で、光力も貧弱でした。

壱岐電灯株式会社は、昭和26年に、九州電力壱岐営業所となりました。

現在は、昭和58年(1983)に、青島に設置された「新壱岐発電所」とともに、壱岐の電力の全てがまかなわれています。








清石浜

夏は、海水浴客でにぎわいます。

壱岐では屈指の海水浴場です。

冬になると、だれもいなくなりますが、それでも、時折り、サーファーの姿を見かけます。















また、冬になると、セグロカモメやウミネコが乱舞する姿も圧巻です。

10月中旬頃から渡ってきて、翌年4月中旬頃まで越冬しています。

冬の海を、大事な人と、砂に足跡をつけながら、寄り添って歩くのも良いものですね〜。













冬、波の荒い日は、波乗りのシーズンでもあります。

それにしても、若者は元気ですねぇ。

女性サーファーもいます。









真邊訓導(まなべくんどう)殉職碑

清石浜を前にした丘の上にあります。

大正6年(1917)7月710日の夏、ここ清石浜に、芦辺小学校の生徒たちが、ここ清石浜に海水浴に来ていました。

生徒を引率して来た、芦辺小学校教師、真鍋貞雄は、2人の生徒が沖でおぼれているのを見て、助けに行きました。

幸い、生徒の方は2人とも助かりましたが、真鍋貞雄は、力尽きて、亡くなりました。

この砂浜は、波が荒く、特に離岸流がある場所です。

波が来て、海水が退く時に、足元をすくわれることが、よくあります。

その冥福を祈ってこの碑が建てられています。

毎年、7月10日に、芦辺小学校の生徒や教師、保護者が草刈りをして、墓参りをしています。



松田春見顕彰碑

昭和30年(1955)8月15日、八幡浦に住む松田春見は、芦辺浦から帰る途中に、清石浜で、波にのまれている学童2人を助け上げました。

しかし、松田春見の方は、強い北風と引き潮にさらわれて行方不明になりました。

この顕彰碑は、昭和36年(1961)10月7日、一般の人々の寄付によって建てられました。
























大韓民国人慰霊碑

終戦直後の昭和20年(1945)1011(10/14説もあります)、強制連行されていた韓国人を乗せた引揚げ船が、玄界灘で台風に遭遇し、芦辺港沖で仮停泊をしていて遭難しました。

広島で被爆した韓国人徴用工の帰国船で、夜間、船は風と波に耐え切れず、流され難破し、翌朝おびただしい死体が芦辺港に浮かんでいました。

死体のほとんどは清石浜に仮埋葬され、遭難者の遺骨は清石の丘や瀬戸の竜神崎に無縁仏として祭られていました。

昭和42年、砂が風に飛ばされて骨の一部がむき出しになったために、胸を痛めた私人が、犠牲となった約160名の韓国人の霊を慰めるため、私財を投入して慰霊碑を建立しました。

昭和
51810日から12日まで遺骨収集発掘作業が行なわれ、83体の遺骨が確認されました。

遭難事故は当時の警察の指令よって箱崎村警防団が上陸を拒否したためといわれていますが、真相は分かりません。
慰霊碑に埋骨されていた遺骨160体と、その後新たに発掘された数10体は、厚生省を通して、埼玉県金乗院釈迦堂に納められています。

慰霊碑は、昭和42年(1967)3月19日に建てられました。

その碑文には、この事故の経緯が書かれていて、最後に「韓日両国の友好増進の実現と人類愛にあふれる博愛精神を後世に残すことを祈念する。」、とあります。




思案橋

この場所には、思案橋と呼ばれている橋がありました。

写真の右下に、1個だけ橋の石碑が残っています。

ここに、昭和の初めまで遊郭があり、「行こうか。戻ろうか。」、と、思案して、最後は欲望には勝てず、遊んだ、と、いう場所です。















今でも、その遊郭の入口が残っています。

当時の人達は、この遊郭の前を通って、通学していました。