朝鮮出兵


皆さん、よくご存じのように、豊臣秀吉は、2回、朝鮮出兵を行いました。

壱岐は、対馬の次に朝鮮に近い場所です。

秀吉の朝鮮出兵の時には、壱岐は重要な場所でした。

秀吉は、朝鮮出兵の折に、呼子に名護屋城(なごやじょう)を造らせ、さらに、壱岐にも、食糧や馬、軍需品を調達するための基地にするために、勝本城を造らせました。














突貫工事

ここは、勝本町にある、城山公園です。

平成14年に、国指定遺跡になっています。

左の写真は、豊臣秀吉が、朝鮮出兵のときに、当時、壱岐を支配していた平戸藩領主の松浦鎮信(まつうらしげのぶ)に命じて造らせた、勝本城(かつもとじょう)の跡です。

築城の命令を受けてから完成するまでに、わずか4ヶ月の突貫工事でした。

壱岐の人々は、16歳〜60歳までの人たちがすべてかり出され、村に残ったのは、老人と子ども、女子だけでした。

城が完成した後、秀吉の弟で秀長の家臣である、本多因幡守正武(ほんだいなばのかみまさたけ)が城番になりました。

本多正武は500人の家来とともに常駐し、食糧、軍馬、武器などの海上輸送を一手に引き受けました。

また、壱岐の治安を守るためにも活躍しました。


最悪の治安

しかし、村に残っているのは、老人と子ども、女子だけだったので、全国から集まってきた、武士たちが、壱岐で、窃盗、乱暴、暴行のやりたい放題のことをやりました。

無理もありません。

全国から、この狭い壱岐に集められて、何もすることがないし、戦場に行けば明日の命は保障されていないのですから。

これに対して、被害にあった村では、みんな一箇所に集まり、夜は見張り番を立てて、賊が侵入してくるのを防ぎました。

また、神社のみこしを焼いて冬の寒さをしのいだり、お寺の仏像や経典が焼かれたり、盗まれたりもしました。

そのため、治安状態は最悪だったといいます。

秀吉は、壱岐でのこのような、乱暴狼藉を禁止する命令を出しましたが、効果がなく、本多正武も手を焼いたといれています。


出港

この写真は、城山公園の頂上から勝本浦を見下ろしたものです。

ここから見える、はるか沖の方が、朝鮮半島の位置です。

この港から、秀吉は、2回、出兵しました。
















日高喜

壱岐からは、城代松浦信実(まつうらのぶざね)をはじめとして、壱岐を平戸藩に売った日高喜(ひだかこのむ)ら300余人が出陣しました。

しかし、日高喜は、朝鮮で戦死しました。

これは、戦死した日高喜一族の墓です。

向かって、左側の2基が日高喜夫妻、右側にある2基が日高喜の両親である資(かてし)夫妻の墓です。

朝鮮出兵のおりに、日高喜が朝鮮で焼かせたといわれ、今、聖母宮(しょうもぐう)にある古唐津焼きの茶壷は県指定文化財になっています。








七重石塔

日高喜の供養塔です。

朝鮮の平安城で戦死した日高喜の遺体は壱岐に運ばれて、住んでいた船匿城(ふなかくしじょう)のある箱崎の中山触という場所に葬られました。

墓は、日高氏の菩提寺である現在の華光寺につくられました。

しかし、その後、日高氏の怨霊(おんりょう)が出るという噂が絶えないために、供養塔を移転前の箱崎八幡の社地に建てました

それでも、怨霊が、おさまらないので、後に日高氏の居館があった現在の地
(オタッチョ)に移しました。

石が風化して各層ともかなり損傷し、倒れかかっています。

一番下に台座があり、そこに、「慶長3(1598)6月吉日今宮八幡大願主日高」の銘があります。

塔の高さは160cmあります。





松浦信実(まつうらのぶざね)

また、平戸藩主の松浦鎮信は3000人の兵で出陣しています。

しかし、壱岐城代であった、松浦鎮信の弟の松浦信実(まつうらのぶざね)は、朝鮮でやる気がなく、病気になり、平戸に帰りまし。

その後、病気が治っても、朝鮮に行こうともしないので、臆病者のレッテルをはられ、謹慎を命じられています。




海士(あま)の特権

朝鮮出兵のときに、水先案内をつとめるために、壱岐に筑前鐘ケ崎と肥前名護屋から海士(あま)が集められました。

海士というのは、男性のあまさんです。

彼らは、朝鮮出兵後も、壱岐の小崎(こざき)という村にそのまま現在も住み続けています。

このときの功労によって、壱岐全部の場所のあわびの採取権を与えられました。

また、江戸時代に壱岐で鯨がとれていた頃は、先頭に立って、厳寒の海に飛び込んで、鯨を刺すという一番、重要な役割も果たしました。








石垣

これは、勝本城の石垣です。

秀吉が亡くなった後、城はすぐに取り壊されました。

城を取り壊すときには、石垣の4角(よすみ)に積んである石を壊せば、取り壊せます。

しかし、この4角の石垣がまだ残っているのは珍しいことです。

石垣は、本丸をほぼ完全に取り巻いていました。










こんな大きな石もゴロゴロしています。

















鏡積み

石垣の造り方をご覧下さい。

形や大きさ、色、質感が異なる石を隙間(すきま)なく積み上げられています。

このような造り方を、鏡積み(かがみづみ)といいます。

写真でみると、直方体、立方体と、いろいろな形の石が積まれています。

いろいろな形の石が、規則的に積まれていないので、崩れやすいように見えますが、なんと今まで崩れることなく残っています。

鏡積みはこのように大小さまざまな石を積み上げていくので、とても危険な造り方です。

また、石の最も広い部分を表にして積み上げていきます。

表面積が1m2以上もある自然石を加工することなく、そのままの状態で積み上げられています。

なかには、表面積が2m2以上あるのもあります。

大きな石がふんだんに使われているのは全国でも珍しいものです。

また、石を縦に置いてあるものもあります。

石を縦に置くのは、危険なので、あまりやりませんが、ここでは縦に積まれているものもあります。



この写真は石垣の角(かど)です。

大小の長方形の石が交互に積まれています。

つまり、長方形の長い石を用意し、それを長い辺と短い辺を交互に積み上げています。

このような、隅石(すみいし)の造り方を、算木積み(さんぎづみ)といいます。

豊臣秀吉の時代の城によく使われ、この時代に完成した積み方です。









それにしても、わずか4ヶ月で完成させるという、超突貫工事が出来た裏には、一般庶民の相当な犠牲があったことでしょう。

いつの時代でも、犠牲に会うのは一般庶民ですね〜。








本丸跡

ここは、勝本城の頂上にある本丸跡です。

楕円形をしていて、縦147m、横69mあります。


















海上安全

これは、頂上にある稲荷神社(いなりじんじゃ)です。

秀吉が勝本城を築かせた翌年に、波高い玄界灘を渡る軍隊の海上安全と勝利を祈願するために平田正恒(ひらたまさつね)が建てました。

秀吉の死後、軍隊が壱岐から引き上げた後も、この稲荷神社だけは信仰心の厚い地元の漁師たちが、400年間お参りしています。

当初は、もちろん木造でしたが、昭和の初期に火災で焼失したために、現在では、コンクリート造りの祠(ほこら)になっています。











宮崎県

これは、秀吉の朝鮮出兵のときに、明と日本との間の書簡の解説、解読、返書などの仕事をするために渡った、日向(ひゅうが・今の宮崎県)の飫肥城(おびじょう)の城主だった伊藤義賢の墓です。

伊藤義賢はクリスチャンでした。

しかし、朝鮮で体をこわし、養生するために一時帰国し、日向に向かう途中、壱岐沖で亡くなりました。

遺体は、祖国に戻ることなく、壱岐の長徳寺で葬儀が行われました。

それ以降、キリスト教関係者の間で供養が行われています。